僕が幼少期を振り返って気づいたこと

ADHDと診断されれば、少しは生きやすくなる。

診断を受ける前の僕は、どこかでそんなことを期待していたのかもしれません。

「どうして自分は、普通にできないんだろう」

「なぜ忘れるんだろう」

「どうして人より感情的になってしまうんだろう」

そんな疑問に、ADHDという名前がついたことで、少しだけ答えが見えてきました。

ADHDだと分かってからは、自分の特性について調べたり、薬を使ったり、生活の工夫を考えたりするようになりました。

それは確かに救いでした。

でも、1年ほど向き合ってきた今でも、生きづらさが完全になくなったわけではありません。

怒られると必要以上に落ち込む。

昔の失敗を何度も思い出す。

相手の顔色が気になる。

褒められるとすごく嬉しい。

期待されると、頑張りすぎてしまう。

否定されると、長い間引きずってしまう。

こうした反応は、大人になって突然始まったわけではありません。

そういえば、子どもの頃から同じだったな

ADHDと診断されてから、僕は幼少期のことを以前より思い出すようになりました。

今回は、そんな自分の過去を振り返ってみようと思います。

ADHDと診断されてから、幼少期を思い出すようになった

ADHDは、子どもの頃から症状が現れる神経発達症です。

僕の場合も、大人になって突然何かがおかしくなったわけではありませんでした。

振り返ってみると、子どもの頃から「うまくできないこと」がたくさんありました。

でも当時は、それをADHDの特性だとは知りません。

「自分は怠けているのかな」

「自分は頭が悪いのかな」

「どうしてみんなはできるのに、自分はできないんだろう」

そんなふうに、自分自身の問題として受け止めていたように思います。

診断を受けたことで、過去の出来事にも少し違った見方ができるようになりました。

もちろん、子どもの頃のすべてをADHDで説明できるわけではありません。

それでも、「あの頃の自分には、こういう特性があったのかもしれない」と考えられるようになったことは、大きかったと思います。

僕は子どもの頃、かなり泣き虫だった

子どもの頃の自分を思い出して、最初に出てくるのが「よく泣いていた」ということです。

本当によく泣いていました。

親に怒られても泣く。

先生に怒られても泣く。

友達に何か言われても泣く。

友達からも「泣き虫」と言われていました。

今振り返ると、かなり感情が表に出やすい子どもだったと思います。

怒られることへの反応も強かった。

少し注意されたという程度でも、必要以上に傷ついていたように感じます。

当時は、「泣いたらダメだ」と思っていました。

でも、泣かないようにしようと思っても、涙が出てしまう。

今なら、感情のコントロールが難しかった部分があったのかもしれないと思います。

成人ADHDでは、注意力や衝動性だけではなく、感情を調整することの難しさも研究されています。成人ADHDでは感情調整の困難が比較的多くみられ、実行機能や症状の重さなどとの関連も報告されています。

もちろん、これは「泣き虫だったからADHD」という話ではありません。

ただ、僕の場合は、幼少期から感情が大きく動きやすかったということは事実でした。

落ち着きがなく、忘れ物も多かった

子どもの頃は、落ち着きもなかったと思います。

じっとしているより、そわそわしていることも多かった。

忘れ物やなくし物も、かなり多かったように思います。今でもよく傘をなくします。

そして、授業中は空想にふけっていることが多々ありました。

先生の話を聞いているつもりでも、気づいたら別のことを考えている。

話を聞いていなくて、質問に対して、とんちんかんな答えをしてしまう。

「話を聞いていない」と注意される。

そんなことが何度もありました。

今考えると、かなりADHDらしい部分が出ていたのかもしれません。

ただ、当時はもちろんそんなことは分かりません。

周囲から見れば、「落ち着きのない子」「話を聞かない子」「ちょっと変わった子」です。

そして実際に、僕は「変わっている」と言われることが多かった。

天然な発言をしたり、場の流れとは違うことを言ったり。

空気が読めないような行動をしてしまうこともありました。

野球をしていても、ぼーっとしてしまった

子どもの頃にやっていた野球も、今思えば分かりやすいエピソードです。

守備についているのに、ぼーっとしてしまう。

監督から怒られる。

エラーをする。

打順が自分の番なのに忘れてしまう。

そんなことがありました。

一方で、集中できるときは集中できます。

緊張感のある場面では、かなり集中できたこともありました。

でも、緊張感のない場面になると、いつの間にか意識が別のところに飛んでいる。

今振り返ると、「集中力がない」というより、自分の意思だけでは注意を向け続けることが難しかったのだと思います。

こうした注意の偏りは、ADHDの特徴の一つとして考えられます。

ただし、これも「昔の失敗は全部ADHDのせいだった」と考えたいわけではありません。

当時の自分には、当時なりの苦手さがあった。

今はそのくらいの距離感で見ています。

家でも学校でも、よく怒られていた

僕は、子どもの頃からよく叱られていました。

宿題をやってこない。

忘れ物をする。

先生の話を聞いていない。

学校で注意される。

家でも怒られる。

特に父親からは、かなり強く怒られていた記憶があります。

叩かれることもありました。

父親自身も、もしかするとADHDのような特性を持っていたのかもしれません。

お酒を飲んでイライラしていることも多く、家の中には常に緊張感があったように思います。

母親から怒られることもありました。

僕自身も反抗したり、わがままを言ったりすることが多かった。

今振り返ると、家の中で心から安心できていたかと言われると、そうではなかったように感じます。

ただ、ここはとても難しいところです。

親を一方的に責めたいわけではありません。

親にも親の事情があったと思います。

僕も子どもだったので、自分自身をうまくコントロールできていませんでした。

だから、「誰が悪かった」という単純な話にはできない。

それでも、当時の自分がかなり緊張していたことは、今になって分かるようになりました。

「自分はダメなんじゃないか」と思うようになった

子どもの頃の僕は、褒められた記憶よりも、怒られた記憶のほうが多いように感じます。

学校に行っても、友達の輪に入りにくい。

からかわれることも多い。

傷つきやすいから、友達に泣かされることもある。

先生から注意される。

家に帰れば、また怒られる。

そんな経験が積み重なっていくと、

自分は普通にできない

自分はダメなんじゃないか

という感覚が生まれてしまうのも、無理はなかったのかもしれません。

実際、僕は人から認めてもらうことに強い関心があったと思います。

褒められるとすごく嬉しい。

注目されると嬉しい。

「すごい」と言われると、自分の価値を確認できるような感覚がある。

大人になってからも、その部分はかなり残っています。

大人になっても、子どもの頃と同じような反応をしている

今でも、仕事などで失敗すると、そのことを何度も思い出します。

過去の職場で嫌だったことを突然思い出すこともあります。

「なんであんなことを言われたんだろう」

「あのとき、もっとこうすればよかった」

「自分はまた失敗した」

そんな考えが頭の中を何度も回る。

いわゆる反芻思考です。

そして、誰かに注意されたり否定されたりすると、必要以上に落ち込む。

相手の顔色も気になる。

一方で、褒められるとものすごく嬉しい。

嬉しすぎて、少し調子に乗ってしまうこともある。

期待されれば、「もっと頑張らなきゃ」と思ってしまう。

つまり、子どもの頃の自分と、大人になった今の自分は、完全に別人になったわけではないのです。

感情の動き方や、人からの評価に反応する部分には、昔からの続きがあるように感じます。

幼少期の逆境経験は、その後の感情調整や反芻などと関連する可能性が研究されています。ただし、こうした研究は「幼少期の環境だけで大人の状態が決まる」という意味ではありません。

だからこそ、僕は最近、「ADHDだから」という一言だけでは、自分の生きづらさを全部説明できないように感じています。

ADHDと分かって、救われたこともある

それでも、ADHDと診断されたことは僕にとって大きな意味がありました。

一番大きかったのは、

「理由が分かったこと」

です。

これまで、「自分はどうしてこうなんだろう」と悩んでいたことに対して、

もしかすると、こういう特性が関係しているのかもしれない

と考えられるようになった。

そして、

じゃあ、どう対策すればいいのか

も考えられるようになりました。

薬を使う。

環境を工夫する。

忘れないための仕組みを作る。

自分の苦手なことを知る。

マインドフルネスや認知行動療法について学ぶ。

こうしたことを知れたのは、診断されたからこそだと思っています。

それでも、生きづらさはすぐには消えない

ただ、ここは正直に書いておきたい。

ADHDと診断されたからといって、過去の自分が突然消えるわけではありません。

頭では、

「これはADHDの特性かもしれない」

と分かる。

でも、誰かに否定されれば傷つく。

失敗すれば何度も思い出す。

相手の顔色も気になる。

期待されれば頑張りすぎる。

頭で理解できることと、感情が実際に変わることは、同じではないのです。

僕がADHDと正式に診断されてから、まだ1年3か月ほどしか経っていません。

だから、今すぐ何もかも変わらなくても当然なのかもしれません。

ADHDへの心理社会的支援や治療によって症状や生活上の困難の改善が期待できる一方、感情調整の問題などには個別に対応する必要があることも指摘されています。

「理解したから、もう大丈夫」

そんなに簡単ではない。

でも、「理解できたこと」自体には意味がある。

僕は今、そんなふうに考えています。

過去を振り返ることに、意味はあるのか

ここまで自分の幼少期を書いてきて、ふと思います。

こんな過去を振り返って、何の意味があるんだろう

過去は変えられません。

何度思い出しても、起きてしまったことは戻せません。

しかも、過去のことを延々と考え続ければ、反芻思考になってしまうこともあります。

だから、僕は「過去を何度も掘り返せばいい」とは思っていません。

大切なのは、過去を再生し続けることではなく、

「自分はなぜ、こういう場面でこんなに傷つくんだろう」

と理解することなのだと思います。

たとえば、僕は今まで「怒られるのが怖い自分」を、弱い人間だからだと思っていました。

でも、子どもの頃を振り返ると、怒られる経験を何度も繰り返してきた。

注意される。

泣く。

また怒られる。

学校でも傷つく。

家でも緊張する。

そういう経験が長い時間積み重なっていた。

そう考えると、

今の自分が過剰に反応してしまうことにも、何か理由があるのかもしれない

と思えるようになります。

それだけでも、自分に対する見方は少し変わります。

人生は幼少期で決まってしまうのだろうか

幼少期の経験について考えていると、

「人生って、子どもの頃にかなり決まってしまうんじゃないか」

と思うことがあります。

確かに、幼少期の逆境経験と成人期の精神的健康には関連が報告されていますし、感情調整などを介して、その影響が後の生活に残る可能性も研究されています。

でも、だからといって、

「子どもの頃がつらかったから、人生もずっとつらい」

と決まったわけではありません。

幼少期の経験と成人後の状態の関連はあっても、すべての人が同じ結果になるわけではありません。研究でも個人差やその後の環境、適応やレジリエンスなどが重要であることが示されています。

僕自身も、まだそこは分かりません。

38歳になった今でも、人と関わることが億劫になることがあります。

過去のことを思い出すこともあります。

これから自分は変われるのかな」と思うこともあります。

それでも、少なくとも昔の自分を一方的に責める気持ちは少し減ってきました。

今の僕が、子どもの頃の自分に言いたいこと

もし、子どもの頃の自分に会えるなら、

「もっとちゃんとしろ」

とは言わないと思います。

むしろ、

結構しんどかったよな

と言いたい。

よく泣いた。

よく怒られた。

忘れ物もした。

話を聞けないこともあった。

友達の輪にもなかなか入れなかった。

変わっている」と言われた。

それでも、その時の自分は、その時なりに生きていた。

もちろん、自分にも悪かったところはあります。

大人になってから振り返れば、家族にきつく当たったこともあった。

後悔していることもあります。

それでも、子どもの頃の自分まで全部否定する必要はないのだと思います。

あの頃は、あれが精一杯だった

そう考えることくらいは、許してもいいのかもしれません。

まとめ|過去を変えることはできなくても、自分の見方は変えられるかもしれない

ADHDと診断されてから、僕は自分の過去を以前より振り返るようになりました。

子どもの頃から、泣きやすかった。

落ち着きがなかった。

忘れ物が多かった。

空想にふけっていた。

友達の輪に入りにくかった。

よくからかわれた。

学校でも家でも、よく怒られた。

そんな経験の積み重ねが、「自分は普通にできない」「自分はダメなのかもしれない」という感覚につながっていた部分はあるのだと思います。

そして、その感覚は大人になった今にも残っています。

失敗を何度も思い出す。

怒られると強く落ち込む。

否定されると長く引きずる。

褒められるとすごく嬉しい。

期待されると頑張りすぎる。

ADHDについて勉強したことで、「なぜこうなるのか」は少しずつ分かってきました。

でも、分かったからといって、すぐに生きづらさが消えるわけではありません。

だから僕は、今もまだ途中なのだと思っています。

過去を何度も掘り返して、自分を責める必要はない。

でも、

「なぜ自分はこう感じるんだろう」

「いつから、こういう考え方をするようになったんだろう」

と一度立ち止まって考えることには意味があるのかもしれません。

子どもの頃の環境だけで、人生のすべてが決まるわけではない。

それでも、過去の自分を理解することは、これからの自分を理解する手がかりにはなる。

僕は今、そんなふうに考えています。

そしていつか、

子どもの頃の自分は、かわいそうだった

だけではなく、

「あの頃はいろいろ大変だったけど、よくここまで来たな」

と思えるようになれたらいい。

まだ、そこまで自信を持って言えるわけではありません。

でも、そう思える日が来る可能性くらいは、残しておいてもいいのだと思います。


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