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「もっと専門的なリハビリをしてほしい」と言われて考えたこと――子どもの支援は一人の専門職だけでは難しい

暮らし

「もう少し専門的なリハビリをしてほしかったです」

最近、訪問リハビリの仕事で、そんな言葉を受けました。

長く関わってきた子どもだったので、正直、少しショックでした。

僕たちなりに、その子にどう関わればいいのか考えてきたつもりでした。

本人の好きなサッカーをしたり、ドッジボールをしたり、UNOやカードゲームをしたり。

遊びだけで終わらせるのではなく、その後に短いプリント課題を入れることもありました。

名前の漢字を覚えたり、国語の問題に取り組んだり。

本人が学習をあまり好まないこともあって、最初から長時間の勉強を求めるのではなく、数分だけでも参加してもらう。

そんな形で関わっていました。

でも、ご家族から見ると、

「リハビリの内容があまり変わっていない」

「もっと専門職としてできることがあるのではないか」

「知育玩具のような道具も使ってほしかった」

という思いがあったようです。

その言葉を聞いて、僕は自分の支援について考え直しました。

もちろん、もっとできることがあったかもしれません。

でも、時間が経ってから考えると、今回のケースで本当に必要だったのは、知育玩具やプリントの量を増やすことだけではなかったのではないかと思っています。

むしろ、

「この子に今、本当に必要なのは何なのか」

を、もっと多くの人と一緒に考える必要があったのではないか。

今回は、そのことについて書いてみたいと思います。

「もっと専門的に」と言われて、最初に考えたこと

まず考えたのは、

「もっと専門的なことをしなければいけなかったのかな」

ということでした。

たしかに、長く支援しているのに、本人の変化が分かりにくいのであれば、支援者側にも振り返るべきところがあります。

目標設定は十分だったのか。

評価が足りなかったのではないか。

その子に合った活動を、もっと考えられなかったのか。

以前関わっていた専門職のほうが、本人とのコミュニケーションがうまくいっていたのであれば、その方法をもっと参考にしてもよかったかもしれません。

そう考えると、自分の未熟さを感じます。

でも、一方で疑問もありました。

「専門的なリハビリ」とは、一体何なのでしょうか。

知育玩具を使うことで専門的になるのか。

難しい課題をやれば専門的なのか。

SSTをすれば専門的なのか。

僕は今回の経験を通して、そう単純なものではないと思うようになりました。

11歳くらいの子に「知育」は本当に必要なのか

今回、特に考えたのが「知育」という言葉でした。

もちろん、子どもの発達段階に合った教材や学習課題を使うことには意味があります。

でも、本人がある程度の知的能力を持っていて、学校生活そのものが大きく崩れている状態なら、

「知能を高めるための知育」が本当に最優先なのだろうか

とも思いました。

この子の場合、学習そのものよりも大きな問題がありました。

学校に行けていない。

家庭以外の活動も少ない。

サービスへの参加も安定していない。

そして、家庭では感情が大きく動いたときに、お母さんへの暴言や暴力が起こることがある。

そう考えると、僕には、

「勉強をもっとできるようにすること」

よりも、

「嫌なことがあっても、暴力や暴言以外の方法で気持ちを伝えられること」

のほうが、その時点では重要に感じられました。

もちろん、学習も大切です。

でも、不登校になっている子どもに対して、学習だけを強化すれば問題が解決するとは限りません。

文部科学省も、不登校支援では原因や背景を把握したうえで、本人・家庭・学校・関係機関が情報共有し、個々の状況に応じて支援することが重要だとしています。学習だけでなく、社会的自立に向けてさまざまな支援先を活用することも示されています。

この子に必要だったのは「情緒面」の支援だったのではないか

僕がもっとも気になっていたのは、情緒面でした。

思い通りにならないことがある。

負ける。

嫌なことを求められる。

お母さんから何か言われる。

そういうときに、本人の感情が強くなってしまう。

もちろん、怒ること自体は悪いことではありません。

誰だって嫌なことがあれば怒ります。

悔しいこともあります。

「やりたくない」と思うこともあります。

問題なのは、その感情をどう表現するかです。

「悔しい」

「今はやりたくない」

「少し休みたい」

「もう一回やりたい」

と言えるなら、かなり違います。

でも、それが暴言や暴力になってしまうと、本人にとっても家族にとっても苦しい。

だから僕は、

「怒らないようにする」ではなく、「怒っても、別の方法で伝えられるようにする」

ことが重要なのではないかと考えていました。

実際、僕たちも遊びの中で関わっていた

「サッカーやUNOばかりしていた」

と聞くと、外から見ると「遊んでいただけ」に見えるかもしれません。

でも、実際には、そういう活動の中にも本人を知る手がかりがありました。

サッカーでうまくいかなかったときに、お母さんへ強い言い方をすることがある。

ゲームに負けるとイライラする。

思い通りにならないと不満を表現する。

そういう場面では、

「悔しいよね」

「でも、今の言い方は怖いよ」

「“バカ”とか“クソ”じゃなくて、こう言えば伝わるんじゃない?」

と伝えることもありました。

例えば、お母さんがゲームで負けそうになるようなプレーをしたときに、

「下手くそ」

と言うのではなく、

「こういうふうにしたら勝てるよ」

と伝えればいいんじゃないか、と話すこともありました。

これは、僕なりにその場面でできる支援を考えていたつもりです。

もちろん、それが十分だったとは思いません。

でも、「何もしていなかった」というわけでもありません。

問題は「訪問リハの時間だけ」で終わっていたことだったのかもしれない

今振り返ると、ここが大きかったのかもしれません。

訪問リハの時間には、本人との関わりがあります。

でも、僕たちが帰った後の生活までは直接見ることができません。

家庭では何が起きているのか。

お母さんはどう対応しているのか。

本人はどんな言葉を使っているのか。

暴力が起きる前には何があったのか。

そして、その後どうなっているのか。

それを僕たちは、お母さんから聞くことが中心でした。

でも、家族からの話だけでは、どうしても一方向からの情報になります。

もしかしたら、僕たちが思っているより家庭では大変だったのかもしれない。

逆に、家庭での問題がある一方で、別の場所では比較的落ち着いていた可能性もあります。

その違いを、僕たちは十分に把握できていなかったのだと思います。

学校やデイ、フリースクールに聞いてみればよかった

今になって思うのは、

「他のサービスにもっと聞けばよかった」

ということです。

例えば学校。

「学校ではどんな声かけが入りやすかったですか?」

「以前はどんな活動なら参加できていましたか?」

「友達との関係はどうでしたか?」

「学習では何に困っていましたか?」

と聞いてみる。

フリースクールなら、

「どんな活動だと本人が参加しやすいですか?」

「スタッフとはどんな会話をしていますか?」

「嫌なことがあったとき、どう対応していますか?」

と聞いてみる。

デイサービスにも、

「怒りやすい場面はありますか?」

「逆に落ち着いているのはどんなときですか?」

「どう声をかけると受け入れやすいですか?」

と聞いてみる。

そうやって情報を集めていたら、

「この子はこういうときに困りやすい」

だけでなく、

「こういう条件ならうまくいく」

という情報も見つけられたかもしれません。

文部科学省も、不登校支援では学校だけで抱え込まず、家庭や関係機関と情報を共有して、組織的・計画的に支援することを重視しています。

主治医や相談員にも、もっと早く相談できたかもしれない

もう一つ考えるのが、主治医や相談支援専門員への相談です。

家庭で暴力が起きている。

情緒面でも不安定さがある。

不登校が続いている。

サービスへの参加も少ない。

こうした情報を訪問リハ側から伝えておけば、主治医も本人の状態を考えるための材料になります。

薬を変更するかどうかはもちろん医師の判断です。

でも、

「家庭ではこういうことが起きています」

「訪問中にはこういう様子です」

「以前の学校やデイではこうだったようです」

という情報を集めて伝えるだけでも、支援の見立ては変わるかもしれません。

また、相談員に、

「この子の支援の中心をどこに置いたらいいと思いますか?」

「家庭内の問題について、他に相談できるところはありますか?」

と聞いてみる。

一つの職種だけで考え込むより、ずっと現実的だったと思います。

訪問リハだからこそ見えるものもある

では、訪問リハは何ができるのでしょうか。

今回、改めて考えました。

僕は、家庭の中で実際に起きていることを見ることが、訪問リハの大きな役割の一つなのではないかと思います。

家で本人がどんなときに怒るのか。

お母さんはどう声をかけるのか。

本人はどんな表情をするのか。

嫌なことをどこまで受け入れられるのか。

逆に、何なら自分からやろうとするのか。

これは、訪問しなければ分からないことです。

だから、40分全部を「訓練時間」にする必要がないケースもあるのかもしれません。

例えば、

本人と10分だけ好きな活動をする。

その後、1~2問だけ課題をやる。

本人が疲れたら休む。

残りの時間でお母さんから最近の様子を聞く。

必要なら、その情報を相談員や主治医、学校などにつなぐ。

そういう使い方もあったのだと思います。

場合によっては、週2回では本人の負担が大きいなら、頻度を調整するという選択肢も考えられます。

「40分すべて参加してもらう」ことではなく、「その子にとって無理なく参加できる量を確保する」

という考え方です。

「嫌なことは全部やらなくていい」でもない

ここも難しいところです。

本人が嫌がったから、全部やめる。

本人が怒ったから、要求を取り下げる。

それだけでは、将来の生活が苦しくなる可能性があります。

一方で、

「嫌でも全部やりなさい」

では、今度は支援そのものを拒否するようになるかもしれません。

だから僕なら、

「嫌なことを小さくする」

という考え方を使います。

プリント10問ではなく1問。

40分の活動ではなく5~10分。

「学校に行く」ではなく、まず外へ出る。

「毎日参加する」ではなく、週1回から始める。

そうやって、「嫌だけど少しならできる」という経験を作っていく。

本人のやりたいことだけを優先するのではなく、本人が参加しやすい活動を入口にして、少しずつできることを広げていく。

これは、僕が今回もっと意識すればよかったことの一つでした。

お母さんへの支援も、子どもの支援の一部だったのかもしれない

今回のケースでは、お母さんとの関係も大きなポイントでした。

お母さん自身も、本人が怒ることや暴力を怖いと感じていました。

だから、本人が「学校に行きたくない」と言ったら、その場を収めるために「じゃあ行かなくていいよ」としてしまうこともある。

本人が「やりたくない」と言えば、やめてしまう。

それは、お母さんが悪いからというより、怖さがある中で、その場を何とか収めようとしていたのだと思います。

でも、それが続くと、

「強く拒否すれば、要求がなくなる」

というパターンになる可能性もあります。

だから本当は、お母さんにも、

「全部やめるのではなく、1つだけやって終わる」

「暴言には反応しすぎず、言いたいことを別の言葉で伝えるよう促す」

「暴力が始まったら、説得ではなく安全確保を優先する」

といった、具体的な対応方法を一緒に考える必要があったのかもしれません。

子どもの問題行動に対する親トレーニングには一定の研究蓄積があり、発達障害のある子どもの破壊的・挑戦的行動を対象としたメタ分析でも、親への行動支援が有効だったと報告されています。

暴力があるなら、「我慢する」ことを目標にしてはいけない

そして、これは学習やリハビリとは別の話として考えなければいけないことです。

家庭内で暴力が起きているなら、お母さんが暴力を受け続ける必要はありません。

家の構造上、その場で距離を取ることが難しいなら、近くの安全な場所や車の中などへ移動することも選択肢になります。

そして、危険が高ければ、警察など外部の助けを求める。

「暴力を振ったら警察を呼ぶぞ」と罰として脅すのではなく、

「人を叩くことは危険だから、そのときは大人に助けてもらう」

という考え方です。

暴力が繰り返される場合には、児童相談所などに相談することも大げさなことではありません。子どもの安全に関わる問題では、学校・医療・福祉などの関係機関が連携して対応することが求められています。

お母さん自身も、暴力を受け止め続けなくていい。

子ども自身も、暴力によって家族との関係を壊してしまう必要はない。

だからこそ、本人を罰するのではなく、暴力が起きる前に助けを求められる仕組みを作ることが大切なのだと思います。

本人の同意がないと、何もできないわけではない

この点についても、今回考えさせられました。

もちろん、本人の気持ちは大切です。

「嫌だ」と言われたら、その理由を知ろうとすることは必要です。

でも、

「本人が嫌と言ったから、お母さんから話を聞くのをやめる」

「本人が嫌と言ったから、安全に関する情報を共有しない」

では、支援そのものが成立しません。

特に安全に関わることについては、大人同士で必要な情報を共有しながら支援することが必要です。

その一方で、本人に対しては、

「お母さんと少し話したいんだけど、あなたを責めるためではなくて、どうしたらもっと過ごしやすくなるか一緒に考えるためだよ」

と説明する。

それでも「嫌」と言われるかもしれません。

それでも、必要な情報共有まで全部やめるわけではない。

本人の気持ちを尊重しながら、大人として必要な支援を進める。

そのバランスが大切なのだと思います。

今振り返ると、「もっと専門的に」ではなく「もっとつながればよかった」

今回の出来事を振り返ると、僕は最初、

「もっと専門的なことをすればよかったのかな」

と考えていました。

でも、今は少し違います。

もちろん、自分の専門性はもっと高めたい。

SSTについても、情緒調整についても、家族支援についても学んでいきたい。

ただ、このケースで本当に足りなかったのは、知識だけではなく、

情報をつなぐことだったのかもしれません。

学校の先生に聞く。

フリースクールに聞く。

デイサービスに聞く。

相談員に聞く。

主治医に伝える。

そして、訪問リハで見えた家庭での様子を返す。

そうして、みんなで、

「この子には何が必要なのか」

「誰が何を担当するのか」

を考える。

文部科学省も、複合的な困難を抱える子どもについて、学校だけでなく医療・福祉・相談機関などが横につながる支援体制の重要性を示しています。

一人で抱えないことも、専門性なのかもしれない

今回の経験を通して、僕は一つのことを強く感じました。

専門職だからといって、何でも一人で解決できるわけではありません。

むしろ、

「これは自分一人では難しい」

と判断することも専門性なのかもしれません。

この子にとって必要なのは、知育玩具なのか。

プリントなのか。

SSTなのか。

家族への支援なのか。

医療的な調整なのか。

学校との連携なのか。

それとも、その全部なのか。

それを一つの職種だけで決めるのではなく、本人と家族、そして関係する人たちと考えていく。

今回のケースでは、それができていれば、もっと違う支援になったのかもしれません。

まとめ――「もっと専門的に」という言葉を、自分への責めだけで終わらせない

「もっと専門的なリハビリをしてほしい」

そう言われたとき、僕は最初、自分の力不足を強く感じました。

それは、今でもあります。

長く関わっていたからこそ、もっとできたことがあったのではないかと思います。

でも、今回振り返って分かったのは、子どもの支援は一人の専門職だけで完結するものではないということでした。

特に、

不登校。

家庭内での暴力や暴言。

情緒面の不安定さ。

親子関係。

学習。

社会参加の少なさ。

こうした問題が重なっている場合には、OTやPTだけで抱えるには複雑すぎます。

そして、「専門的な支援」とは、特別な知育玩具を使うことだけではありません。

本人の状態を知ること。

家庭での様子を見ること。

本人が参加できる方法を考えること。

家族を支えること。

必要なときに他職種へつなぐこと。

そして、うまくいかなければ支援そのものを見直すこと。

それも専門性だと思います。

今回の僕にできたことは、今になって考えれば、もっとあったのかもしれません。

学校やデイ、フリースクールに電話して、関わり方を聞いてみてもよかった。

相談員に支援全体について相談してもよかった。

主治医に家庭での暴力や情緒面について情報を返してもよかった。

40分を全部リハビリにするのではなく、本人の参加時間を短くして、お母さんと話す時間を作ってもよかった。

そういう方法もあったのだと思います。

でも、だからといって、

「あのとき全部自分が悪かった」

とも思いません。

一人で見えていた景色には限界があった。

だからこそ、次に似たケースに出会ったら、もっと早い段階で、

「この子に関わっている他の人たちは、この子をどう見ているんだろう?」

と聞いてみたい。

そして、

「この子を変える」のではなく、「この子を支える人たちが、どう一緒に動けるか」

を考えたいと思います。

それが、今回のクレームから僕が学んだ一番大きなことでした。

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